特に若年での受賞や学生作家の受賞は芥川賞に大きな話題となります。
芥川賞受賞の最年少記録は、1966年の丸山健二の記録が40年近く破られていなかったですが、2003年の綿矢りさ、金原ひとみの同時受賞で大幅に更新されました。
第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となりました。
太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり、薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していましたが、結局受賞はできませんでした。
この時選考委員の一人だった川端康成は、太宰について「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる悩みがあった」と評していましたが、これに対して太宰は強く憤り『文藝通信』に「川端康成へ」と題する文章を掲載しました。
「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。大悪党だと思った」とまで川端をなじったのです。
これに対し川端も翌月の『文藝通信』で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁しました。
また太宰は選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り、第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けましたが、第3回以降しばらく「1度候補に挙がった者は以後候補としない」とする規定が設けられ、受賞の機会が奪われることとなりました。佐藤はこれらの経緯を「小説 芥川賞」と題して詳しく描いています。
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